はじめに「兵庫は安藤建築の宝庫」
兵庫には安藤忠雄さんの建築作品が多数あります。そして安藤さんの作品の中でも、様々な種類の建物を見ることができます。
これから紹介するのは、全て私が実際に行ったことのある建物でどれも必見です。それでは紹介していきます。
兵庫県立美術館
兵庫県立美術館は2002年に開館しました。建物の四面がそれぞれ違った顔を見せているところが見応えあります。
基本的に建築は接道のある前面道路へ向けたファサードが考えられがちですが、この美術館の前面は奥に向けたアプローチを促すかの如く控えめになっています。
両サイドは植樹がされていて、何かが強調されることがなくて落ち着いています。
そんな自然な道を通って裏面に出ると、どうやらその裏面こそが正面として設計されていることに気づきます。
大阪湾に向けて広い幅員の広場のような散歩道、見渡す限り空の面積が大きく、非常に開けています。
そこには安藤さんの設計した、フォートワース現代美術館を彷彿とさせるような張り出したRCの屋根があります。
また回遊性を最大限にあげるだけでなく、道の見え隠れがその先を想像させ、行ってみたくなるような安藤さんの設計手法が力強く訴えてきます。
屋根は周囲に対して強い引力を持っていて、3つに分かれている建物間にはそれぞれの空間が作られています。
一つは美術館の入口へと繋がる円形のスロープ。
もう一つは単なる余剰空間。
階段を登って、永久を感じさせるかのようなシンメトリーの道を進んでも、その先は行き止まりなのです。
だからと言ってピクチャーフレームのような役割を果たしているわけでもないのです。
土地の特性を考えた「山から海への軸線」という視点で捉えると合点がいきます。
人を呼び込むだけではなく、自然のエネルギー、風やもっと目に見えない何か清らかなものも呼び込んでいるように思えます。
そして道を形成するボリュームの操作は、きっとある意味で合理性を排除することを考えているのではないでしょうか。
人が向かう空間は理由があるからだけではなく、感覚、それも遺伝子レベルの生物学的なもっと根源的なものに引っ張られたところもあるのではないかと感じました。
本福寺水御堂
本福寺水御堂は淡路島にある寺です。1992年に完成しました。
点々と低い密度で存在する住宅を抜け、急な坂道を登って行った先にあります。
“寺院は地上にある”という常識が、いつの間にか自分の中で既成概念と化していた気がします。
安藤建築は基本的に入口までの距離が長い気がします。
寺院においてこれは気持ちを静穏なものにすること、日常から緩やかに切り離していくことに上手く働いているように思います。
そしてRCの壁も音を有効に遮ります。
曲線が作り出す道の狭まったり広くなったりという副次的にできる産物も非常にわくわくさせてくれます。
そうやって誘導されて行った先に見られる開けた景色は「池」なのでした。
しかしそこには池しかないわけではないのです。
遠景に山が見え、家が見え、生活の片鱗が見える中で、異世界を作り出しています。
建築を地上に作るか、地下に作るかといったことは周辺環境を考慮して決められるべきであるということを教えられました。
ここでの解は「地下」でした。
それは環境視点の最適解という意味でなく、 イメージの連鎖として導かれた解、つまり「寺とは何か」も同時に考え抜いた末に行き着いた結果なのです。
また、地面に埋められるように作られた寺院という存在は布教や身近さへの逆説的な象徴でもあり、その対比は思想の内なる強さを感じさせるものなのであるとも捉えることができました。
詳しくは別記事にで紹介しています。
六甲の集合住宅
六甲の集合住宅は1983年に第1期が作られ、その後数期に渡って作られました。
六甲山の中腹に立つこの建物は急斜面を生かし、建築物の生成に投影しています。
安藤建築の特徴かつ長所である階段の効果が存分に生かされています。
階段とは単なる機能性だけでなく上下を繋ぐ楽しさという建築体験を生み出す場でもあります。
フラットな高さでは感じられない風景・風・空気がそこにあります。
階段はそこにあるだけで、山登りと同じように不思議と人を惹きつける魅力が元々備わっているのではないでしょうか。
とある町中のかなりの急斜面で、若者でもしんどく感じられるような長い階段でも、高齢の方々が果敢に途中途中で休憩しながらでも頂上を目指して登っている姿が見受けれられました。
登ることは行動であり目的であると思います。
そういった人間の本能的な部分に上手く働きかけるものがこの建築にはあります。
ボリュームの乱立は多種多様な空間がそこにあることを示していますし、張り出したフレームは地上のアイレベルからもっと奥にも領域が広がっていることを教えてくれます。
大規模な建築でありながら、ヒューマンなスケールにも焦点を当てながら緻密に考えられていると感じました。
姫路文学館
姫路文学館は1991年に北館、1996年に南館が完成しました。
建築の内外の捉え方がよく表れています。この建物は矩形のグリッド+円弧で構成されています。
グリッドでフレームを作ってそこに安定や拡張や明確さを表現しながらも、円による誘導性で空間を緩やかにつないでいます。
この「緩やか」というのが重要だと思います。
緩やかさの表現は心理的な落ち着きへ働きかけてきます。
急いでいる時に緩やかさは却って邪魔になるので、都会的な場所に必要とされるものとはまた異なってきます。
適材適所の表現の一つとして、この姫路文芸館は「円」を使っています。
内には内縁に沿って展示空間が広がっていて、進むに連れて次の領域が見えてきます。初めから全貌が見えるわけではないのです。
つまりは量の制限、一定化ということにもなるだと思います。
外に出てみると次は外縁の役割が果たされます。外接であるために自然と目線は外側に向きます。
その外側に何があるかというと、自然に溢れた姫路の山々です。
中の展示室で地理を学び、外でその知識を持って体感できます。上手くプログラムに沿った建築が出来上がっていると思います。
また建物へのアプローチとして緩勾配の階段と、人工的な小川、塀は目線を下に向けさせます。
建築だけではなくてそれに至るまでの空間も楽しんでもらえるような、庭としての来客を出迎えるギミックが浸透していて、余すところなく一環として考えられているのが分かります。
淡路夢舞台
淡路夢舞台は2000年にオープンしました。ホテルを含めたランドスケープ一体の計画が大規模に広がっています。
様々な安藤建築を見てきましたが、特徴的な手法がいくつもこの計画の中に取り込まれていて、集大成というか、ベストアルバムというか、 そんな印象を受けました。
円形のスロープ・拡張フレーム・石積み階段 +小川等々、敷地に入ってまず感じたのが、手に負えないほどの情報量の多さです。
一挙に訴えかけてくるものがあり、どこから処理しようかということに戸惑います。とりあえず百花壇に向かおうとするも、ただでは行かせてくれません。
直線的なアプローチはできないのです。それまでに数々の空間を強制的にも体験させられるようになっています。
訪れたのが閑散期でもあり、清掃が行き届いていなく花も咲いていませんでしたが、それを凌駕するほどの感動がありました。
百花壇の頂上を目指し、スロープや雁行した階段を登ってやっと到着すれば、淡路島の絶景が獲得できます。
入口と頂点を結んだ間の多様性があればあれほど、達成感と感動とが入り混じった感覚は増幅されます。
一人で体験するのはもったいないところです。規模が大きすぎて見ていない箇所が多分にあります。再訪が楽しみです。
ローズガーデン
ローズガーデンは1977年に完成しました。
三宮から北へ坂を登ると北野のエリアに入りますが、住宅や小さな店舗を中心とした建物が細かく配置されていてそれが街の特徴となっています。
開けたところにはその場所の設計手法や考え方があるのと同様、こういったエリアには緻密さや細分化、同質的多様空間が求められると思います。
勝手に造語にしましたが、同質的多様空間とは矛盾しているような言葉ですが、連続している中でいろんな場所が出来上がるという意味です。
敷地という条件があればその範疇に納まっていなくてはならないですが、周辺を巻き込んだ多様性はいくらでも作り出せます。
見る・見られると言う商業建築によくある関係性を考えるだけではなく、活用する人々にとっての憩いのたまりも必要なので、上手く満たした設計をしているなと感心しました。
建築は目新しさではなくて、抽象さが残るものの方が、長く活用されるのではないかと思います。
おわりに
以上、兵庫にある安藤忠雄さんの作品を紹介しました。
安藤さんの作品はどれも体験的な楽しさをアプローチや奥行き、見え隠れによって作り出しているように思います。
そしてそれは、建築が作り出せるものの原型に近いのではないかと思いました。
・長いアプローチを楽しむ「狭山池博物館」
・さんかくの建物に沿った展示空間「坂の上の雲ミュージアム」
・考えること、歩くこと、建築と哲学「西田幾多郎記念哲学館」